親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その11)

先回から、因縁果の道理について書いています。車同士の交通事故で、どう考えても相手の過失が重大だと思われるような場合でも、さらに突き詰めて考えれば

「どうしてその相手とぶつかるような時に、その場所を走っていなければならなかったか」
という疑問が必ず残るでしょう。

その事故の当事者に、自分がならねばならなかった原因は、必ず自分にあったのだ、と教えられるのが「自因自果」ということです。

では過失の大きな相手は悪くないのかといえば、それは「悪縁」であると教えられます。
事故に遭ったのは、私の持っていた悪因が、そういう悪縁と合わさったからだと教えられています。

他人やほかのもののせいで、自分が不幸になったと思えることが、日常にはよくあります。しかし仏教では、そういう他の因が私に結果となって現れる「他因自果」もなければ、私の種まきが他へ現れる「自因他果」も絶対にない、と教えられるのです。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その10)

「自因自果」について、先回から、具体例をとおして考えています。横道から一時停止もせずに出てきた車と衝突したあなたに、落ち度はあるのでしょうか。

ここで見逃してならないのが、「なぜあなたの身の上に」この事故が起きたのか、ということ。たとえ一時不停止の車がいても、かかわりがなければ衝突はしません。そんな車が飛び出してくる、その時、その場所に、なぜあなたは車を走らせていなければならなかったのでしょう。
それこそが、あなただけが持っていた「原因」ということです。「自因自果」は間違いのないこと。それなくしては、この事故は起こりえなかったのです。

では、飛び出してきた車は悪くはないのか、といえばそうではありません。

因果の道理は厳密には、因縁果の道理ということで、原因は縁と合わさって結果となります。
たとえば米の因はモミダネであり、それが陽光や適温、湿度、土、水、肥料や農家の方の世話、という縁と結びついて米となる(果)のです。タネだけで現れる結果はありません。必ず因縁が和合して結果となるのです。
このような因縁果の関係をもう少し見てみましょう。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができま す。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その9)

仏教の根幹である「因果の道理」の
「自因自果(自分のまいた種は自分が刈り取らねばならない)」
について、具体的な事例から話をしてきました。。

私たちに現れるさまざまな運命(仏教では本来使わない言葉ですが)は、すべて過去の自分の行為の結果、と教えられています。
ところがこう聞いても、なかなか受け入れられないこともあります。

例えばこんな場合はどうでしょうか。

あなたは車で片道二車線の幹線道路を法廷速度で走っています。
ところがそんなあなたに、脇道から飛び出してきた車が衝突してきたのです。
相手は一時停止の標識を無視して、ブレーキも踏まずにぶち当たってきた。その衝撃で、あなたはムチ打ち状態となって全治一ヶ月の大怪我を負いました。
状況を聞けば、あなたに過失はなさそうです。タイミングによっては、前方不注意が適用されるかもしれませんが、過失の割合はあなたが断然低いでしょう。
法律上も当然そうなりましょうが、仏教ではこんな場合も、この事故はあなた自身が持っていた悪業力の結果であると説きます。
それは一体どういうことでしょうか。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができま す。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その8)

奥さんとDV夫の話を続けましょう。

更正もきかないDV夫、奥さんはこの男のため、おおいに苦しんでいます。
「この夫さえいなければ……」
多くの人はそう思うでしょう。

ところが、仏教ではこれも、奥さんの「自因自果」と教えます。
そもそもこの不幸は、どこから始まったのでしょう。奥さんがDV男に惚れて結婚したのが始まり。いくら危ない奴がいても、かかわらなければ危害を加えられることもなかったのです。

ところがこの奥さん、あろうことか、こんな男を好きになり、押しかけてまで一緒になったのでした。惚れる、好きになる、は理屈ではありません。
よく「業(ごう)」といわれるように、そんな男性を好きになる業を持っていた、としか言いようがありません。業とはつまり、その人の行い、「タネ」ですから、それが芽生えて各人に果報となって現れる、と仏教では教えられるのです。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができま す。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その7)

善い種をまけば善い果報が現れ、悪い種をまけば悪果が報う。善悪、いずれも自分の種まきが、必ず自分に現れる。自分に来る一切の運命は、自身が過去にまいた種でないものは一つもない、というのが仏教の「因果の道理」です。

ここで「自因自果」と教えられていますが、私たちには、どうしてもこれを受け付けない心があります。特に、苦しみや悲しみ、つらいことが自身に起きると、どうしても他人や物のせいにしてしまいます。

たとえば大変働き者で気のいい奥さんがいたとしましょう。彼女の夫は最悪のDV夫。思い通りにならないと暴れだし、奥さんを殴る、蹴る。時には殺してしまうほどの暴力を振るう。

だが、ほとぼりが冷めると自分の行為を悔いて泣いて謝り、二度としないと誓います。惚れた弱みか奥さんは、どうしても許してしまうのです。ところがこれは、DVの典型パターン。こんな人が暴力を繰り返すのだそう。彼女の友人は言います。

「あの夫さえいなければいいのに……彼女は人柄もいいから、いくらでもいい人と結ばれるはず」

さてこの奥さんの不幸は、ひとえに夫だけの責任でしょうか。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができま す。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その6)

まいた種は必ず生える、という「因果の道理」を聞けば、大方は〝間違いない〟と納得します。そう思えばこそ、人は成功を信じて何事にも努力し、苦難にも耐えるのです。

しかしそれは時と場合で、多くは自分に都合のいい場合のこと。都合が悪い時は、例外を認めています。

例えば、自分の責任ではないのに上司から理不尽に叱られたとか、原因不明の大病をいきなり患ったとか、明らかに相手の過失としか思えない事故に遭ったなど。そんな時は「因果の道理」を拒否して、嘆いたり、腹を立てたりすることが往々にしてありますね。

しかし、それらすべて「因果の道理」に則って、相応の果報が現れているのだ、とお釈迦さまは教えられています。因果の理法に私無く、種に応じた結果が私に表れているに過ぎないのです。

そもそも受け入れられるか、否か、は私の都合。種々の事象は、いつも私の思い通りになってはくれませんし、神のような、何か意志を持つ大いなる存在を想定することこそ理不尽でしょう。「自因自果」ということを詳しく考えてみましょう。

因果の道理について親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その5)

ところが一方で、悪果が来た時はどんな気持ちになるでしょう。

毎日食べ物に気を遣い、暴飲暴食は避け、生活態度や適度な運動に心がけ、なるべくストレスをためず、精神的にも落ち着いた毎日を送っていたはずなのに、どうして自分がこんな病気にならなければならないのか、と苦しんでいる人もあるでしょう。

確かに至らない点もあったかもしれない。でも私なりに尽くしてきたし、がんばっても来た。それなのになぜ、私を裏切ってほかの女と浮気なんかしたの、と夫に迫っている妻、逆に夫もいるかもしれません。

自分は交通安全に気をつけて、法規も守って運転していたのに、あんな乱暴な運転する奴が、向こうから勝手に飛び込んできて、こんな目に遭ったんだ。どうしてくれるんだ、と憤っているドライバーもあることでしょう。

そんなケースは人の数ほどあり、程度もそれぞれですが、思いがけない苦しみが来た時、人はだれしも、こう思うのがふつうでしょう。
社会的にも過失割合は存在し、いろいろなパターンが法律でも規定されていますが、仏教では、さまざまな状況はあるにせよ、あなたの身に起きた、また起きようとする一切の運命は、すべてあなたの行為によってつくられたものなのだ、と教えられているのが因果の道理なのです。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その4)

仏教の根幹「因果の道理」について書いています。因果の道理とは、
善因善果(ぜんいん ぜんか)
悪因悪果(あくいん あっか)
自因自果(じいん じか)
のことで、
「善いタネまけば善い結果が現れる。悪いタネをまけば悪い結果が来る。善いのも悪いのも、自分のまいたタネの結果は必ず自分に現れる」
ということです。

聞けば否定しようのないことで、私たちも日常、多かれ少なかれ、このような因果を信じて、生活を営んでいます。

学生ならば勉強をがんばれば成績が上がる、と机に向かいますし、人より抜きん出て成果をあげようと、昼夜を分かたず仕事に励む人もあるのは、皆、この因果関係を信じてのこと。
イチロー選手や石川遼君など、一流のスポーツ選手は皆、「努力はウソをつかない」と、日夜人のしないような練習に励んでいます。

善い結果を得ようと努め、それが得られた時、私たちは善因善果、自因自果にウソはなかった、と喜びます。仮に多少の水増しがあってもそれは、善果なのですから、否定する理由はありません。
「全部、オレのお手柄さ」
と得意満面になるでしょう。
涙ぐましいがんばりで幸せが来た時は、多少の差はあれ、だれもがそのような気分になるものでしょう。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その3)

「自因自果」とは「自業自得」ともいわれ、平たい言葉で言えば、
「まいたタネは必ず生える。刈り取らねばならぬ一切は、我が身のまいたものばかり」
ということです。

善いタネも悪いタネも差別なく、まいた人に必ず結果が現れる、ということです。
「他因自果(他人のまいたタネの結果が自分に来る)」とか「自因他果(自分のタネまきが他人に果報をもたらす)」は、一切ありません。どんな場合も「自因自果」に間違いはないのです。

ここで「因」とか「果」といわれるのは何でしょう。
「因」とは我々の行為であり、「果」とは各人の「運命」をいいます。仏教では本来「運命」は言いませんが、便宜上、こう表します。

因果の道理とは、私たちの運命の因果関係を教えられたものなのです。
だれしも自分の運命を知りたいと思っています。いつの世でも人は占い好きです。「どうすれば、幸せになれるのか」
常に追い求めているからでしょう。

その、だれもが知りたい運命の仕組みを仏教は、因果の道理で答えられているのです。

善い運命が欲しければ善い行いをすればいい。不幸になりたくなければ、悪いことをしないようにしなさいよ。
これが仏教の因果の道理の教えです。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。

親鸞会で親鸞聖人のご生涯を学ぶ 仏教の根幹・因果の道理(その2)

「因果の道理」は宇宙の真理であり、仏教の根幹である、と前回書きました。

全ての結果には必ず原因がある。これはいつでも、どこでも決して変わりません。時々、
「これは偶然に起こったことだ」
と、まるで原因なしに引き起こったことがあると言い張る人もありますが、それは原因不明なだけで、原因がないのではありません。
たとえば墜落して海の底深く沈んだ飛行機の事故原因は、とても追究できませんが、それは原因がないこととは違うのです。
「因果の道理」は私たちの運命がどのように生み出されるのかを教え、その因果関係をお釈迦さまは次のように言われます。

善因善果(ぜんいん、ぜんか)
悪因悪果(あくいん、あっか)
自因自果(じいん、じか)

「善因善果」とは、善いタネをまけば善い結果が現れる。「悪因悪果」は、悪いタネをまけば、悪い結果が報う、ということです。
ダイコンの種をまけばダイコンが、キュウリのタネをまけばキュウリが生えてきます。
ダイコンをまいてキュウリは出ないし、キュウリをまいたならダイコンは出ません。
善いのも悪いのも、タネに応じたものが必ず生えてくるのです。

因果の道理については親鸞会の法話で詳しく聞くことができます。